この世のすべては単なる幻想にしかすぎない。

この世のすべては夢のようなもの。
儚いとは、人に夢と書く。

ヒンズー教では、この世界は「神が見ている夢」でしかないそうだ。
また、どこかで聞いた話だが、この世界のすべての物は実際は朧げなもので、人がそれを見ると、光より速い速度で意思が飛び、その物を確定するというらしい。

Twitterをたくさんしてきて思ったことがある。
小生は、なんというが、接客業をしているのか、なんとなく感情のブレというか、動きが画面からわかる。
…つもりでいた。
例えば、誰かが誰かを好いていたり、嫌っていたり、さらに突っ込んで言えば、「誰かと誰かがやった」っていう話もなんとなくわかっていた。会話の流れやいろいろな言葉の端々からわかるのだ。
実際、そういう「勘」みたいなものが当たっていることが多数あり、エアリプライでも、ああ、自分に向けられているな、とか。

(※エアリプライ→本来は相手に返事する場合、頭にIDを付加するのだが、それをわざとなくして相手にわからせる手法)

昨日、金沢に行っていたその帰り、ふと思ったのだ。
そんなことは、実は単なる幻想だと。
つまりだ、どどのつまり、本人の内心の奥の奥など、絶対に他人などにはわからないものだ。
悟りというものが、説明できないもののように、人の考えなど本当は説明のつかない物だのだ。

よく相手がなにを考えているのかわからない、という話を聞くが、そんなものは当たり前だ。
それこそ、自分が何を考えているのかわからない場合も多いのではないだろうか。
それを相手に話すように求められても、そもそも無理な話というものだ。
無理やり聴き出しても、本音をいうことはあるまい。
やはり防衛本能というものも働くだろうから、本人が気が付かないうちに嘘もまじるだろう。

つまり、このことから考えると、
「あなたが好き」
という感情は、実は勘違い、という可能性もある。
好きとか、嫌いとか、実は単に自分がそのように思い込んでいるだけであって、実際は、逆のパターンも多いのではないのかと思う。
単なる思い込みで動いているものだ。
これは経済でも当てはまる。

「景気がいい」
というのは、実は単にお金の流れ云々と言う前に、「世界全体の気分」というものがあるのだろう。
つまり、みんなが不機嫌だったり、不安だったりすると、景気はわるくなる。
このことがわかっていないと、今の世界中の政府が行なっている失策の意味がわからないかもしれない。
ウォール街では貧富の格差で、デモが行われているという。
デモを支えているのは、共感している民衆だ。
一部の人の機嫌が良くても、その何倍もの人たちが不機嫌であれば、やはり不景気になる。
だから、一部の人間の所得が理不尽に高いと、景気が悪くなる。
しかし、だ。
その所得に格差がある、ということを知らなければ、世界の機嫌はどうだろう。
小生は思うに、景気はいいのかもしれない、と思う。
つまり、事実はどうであれ、「良い」という幻想の中にいれば、それなりに良いものである。
世界中の人々が、数値や所得格差を気にせず、「世界中は景気がいいんだ」という幻想を本気で持てば、きっと過去に類を見ない好景気になるだろう。

プラシーボ効果もそうだ。
薬としての効能はないのに、思い込みで体の調子が良くなってしまう。
これも幻想の中で生きている最たる証拠ではないだろうか。

つまり、誰かのことを思うとき、それは事実ではないのだ。

ぶっちゃけて話してしまえば、気になる人がいるとする(それも幻想なのだが)、
その人が誰かとHしました、とする。
だが、二人が共謀してやっていないと言いはる。
怪しいと思うが、やはりそれは過ぎてしまった過去の事実に対して確認の使用はないのだから、やっていないと信じるしかない。
逆のパターンとしても、そうだ。
二人はHしていない、というのが事実だが、二人が口裏をあわせてヤッったという話にした場合、事実ではないが、やはりそのようなことがあったのだ、ということになってしまう。
つまり、「あった」のに「なかった」ことになり、「なかった」のに、「あった」ことになる。
もう、確認のしようがないのだ。
その場にいることは、今の科学では無理なのだから、もうどうしようもない。
つまり、信じていることが事実であり、それはこの世界のどんなことにでも言える。

つまり、事実かどうか、なんていうのはその場に居合わせて無い限り、絶対にわからない。
信じていることが真実か、嘘なのか、という話よりも、自分が現実と思っている幻想にしか生きられないのだ。

だから、
「我思う故に我在り」
なのかもしれない、自分自身だってもしかしたら、自分が信じている幻想なのかもしれないのだ。