2018年を振り返って


2018年、まだ記憶が新しい内にまとめておきたいと思います。
ただ…これ、僕の単なる気持ちの整理になりますので、あまり面白くないかもしれません。


・2018年、祖父が亡くなり、完全な世代交代が果たされた。

自分より年上の方々の見方が変わりました。まず、二年前に祖母が亡くなり、2018年に祖父が亡くなりました。言い方は悪いのですが、はっきりと次の世代にわたったわけですが…。
なるほど、戦後、日本語があれだけの勢いで復活し、そしてバブルをいたり、そして長い低迷期、斜陽の国になっていったわけがわかりました。祖父、祖母の代は偉大だったんですね。教育以外に関しては。
世代か段々変わっていき、日本が悪くなっていった理由がはっきりと分かりました。


・本当に邪悪な心を持つ人間がいる。

これは仕事を通じて学びました。邪悪というのは色々な意味がありますが、僕がいうのは、

「自分のためなら他人を犠牲にしても当然、そして罪悪感も何もないであろう」

と思われる人々です。
びっくりしました、自分の利益のためならば自分のためにしてくれた人のことなんか気にもとめない、それどころか踏みにじるようなこともする人がいることに。
甘いと思いますが、僕はこの年まで少なくとも人間には良い心がある、という性善説というか、そういう「心の中の神性」を信じていました。どんなに酷いことをしても、どこか罪悪感があるという話です。
ところが、そうでなく、人のことなど本当にどうでも良く、そしてむしろ使い捨てたら踏みにじって遊んでやろうという心の持ち主がいることに驚きました。さらに驚いたのは、そういう人が比較的、社会的地位が高い人にかなりの数がいる、ということでした。行ってみれば、社会の支配層の方々です。

私たちの社会は少なくともこんな人たちを諸手を挙げて支配層に迎えているのか、と知ったときに、日本社会への深い絶望が深まりました。

それにともない、そのあたりを取り巻く人々にも驚きました。

「尽くされることになれている」

ということです。別に恋愛ではありませんが、

「自分のためでもそうでなくても、人の苦労などしったこっちゃない。自分が楽で楽しくて良い気分であれば、人の頭でも足置きにする」

子供のだだとは明らかに異なる、何も知らないで済むなら何も知らないでいようと心に決めた人々です。自分たちが多くの人に支えられている、その文言すら理解できない人々が本当にいるのだな、ととも。

見えなければ存在しない。
見えない苦労は知らない。
でも、当たり前に提供されて当然です。
感謝なんかされても、することなどありません。

というところでしょうか。

人というのに対して、深い深い絶望を抱きました。



・レイキ療法の光は自分の闇の深さを炙りだした

レイキは素晴らしいと思います。僕は習得して本当に良かった。
ですが、それとともに、自分の闇、深い傷と向き合うことになりました。これは自分にとって凄まじい苦痛ですし、傷を作った人々にも自分たちの業の深さを自覚させる…どころか正当性を主張することを呼び起こし、僕は自分の闇は決して救われることのない、昏い昏い物なのだな、と自覚するに至りました。
もはや、別に救われたいとも思わなくなりましたし、むしろ、消滅してしまいたいとも。
繰り返しますが、レイキは素晴らしいものです。
僕の人生を良い方向に変えてくれました。
でも、僕の周りの僕をどうにかしたい人たちにとっては、レイキはとても邪魔な存在なようだと気がつきました。
僕は僕らしく在ることに許されないところにいるのだな、と改めて自覚した年でした。

皆さんは、自分らしくあってほしいですし、決して誰かを別の人間に作り変えようとしてはいけないと思います。

僕はその人がその人らしく在ることは、人とのしての権利だと思います。
こう感じなさい、こう考えなさい、そのように考えてはいけません、そのように思っても感じてもいけません、私たちの思うように貴方も思い、考え、感じ、私の側にいなさい。というのは、深い深い人に対しての罪だと思います。

人の心に土足で立ち入って、自分の思うようにしてはいけないと思います。

その点、レイキはそういうことがなく、また本来の自分に立ち戻らせてくれた、すばらしい療法だと思います。



・神仏に対しての姿勢が変わった。

上記のレイキ療法に関わって、自分が神仏に対しての姿勢が変わりました。僕は…幸運なのか、神様を信じる信じないという話ではなくて、実際に会った(こういうこと言いますと、どっかの新興宗教とか、何か変な話に行きがちですが、とある神社で実際にそういうお姿を見たのです)ことがあるので、いらっしゃることは存じておりますが、自分が向き合う姿勢が変わったのです。
まだどこかに神仏にお願いしたり、頼ったりとそういうのがありましたが、なんかそういう気持ちより、参拝できるだけでも幸せなことなんだろうと思うようになりました。それに伴ってか、やれ、パワースポットだとか、エネルギーをもらうとか、そういう事は、おこがましいことなんだな、と反省しました。
それと、なんとなく、参拝させていただくと、そこの神仏の性格というのがわかるようになりました。
いや、雰囲気だけですけど。



・空海上人は本当に凄い、現代スピリチュアルはあまりにも脆弱だ。

訳あって、高野山に登ることになりました。
僕にとって、初めての高野山であり、空海上人という方に触れる機会に恵まれたのですが、その系統だった檀法、法力に、はっきりと現代のスピリチュアルはもしかしたら絞りかす程度の物なのかもしれない、と危惧を抱きました。
今の個々に分化したスピリチュアルなものなど、空海上人の前ではなんの役にもたたない、独りよがりな左道にしか見えないのかもしれません。
高野山でかなりショッキングな体験をいたしました。
それも何度も。
この体験は僕の人生において、スピリチュアルとはなにか、を根本的に変えてしまうものでした。
でも、一つ高野山で驚いたこととしては、

「高野山といえども、夜道には成仏叶わない霊が彷徨っている」

ということでしょうか。
高野山は聖地ですが、なるほど、聖地であっても許されない、そんな霊もたくさんいるのだな、としみじみ思いました。

高野山は間違いなく、修行の場です。
それがちょっと観光地化しすぎな気もしますし、ううーん、まあ、位は高いのですが、なんか感心しないなぁ、というお坊様もおられ、お坊さんといえども、人間なんだな、と思うこともありました。


・とある衝撃的な出来事がかさなり、人間の心が少しだけ見える…ようになった???

偉そうなことを言わせていただければ、その人の全てが分かるわけではないのですが、なんとなく、どういう人なのか、ということがわかる…ようになったかも??
テレビとか見ていても、ちっとも良い人はいません。
美男美女ともてはやされる人たちの、そのほとんどは、中身がスッカラカンです。
そして大御所と呼ばれている人たちの、強い慢心。
テレビに出ているという特権意識。
知識があるようで、実は付け焼き刃の知識でしかない人々。
高学歴でなんでも持っているようで、教養がない人たち。
見ていても、ちっとも面白くないというか、
「日本人ってこんな人ばっかりだったっけなー」
と首をかしげる感じです。
どうしてそう思うのか、というのに的確な答えはありませんが、なんとなく、見える、というのでしょうか。テレビは年々見なくなっていき、それが加速度がついた年でした。


・災害に遭った。

これはショックでした。台風21号でしたけど、後始末が終わるまで、年内いっぱいかかりました。心身共に消耗しました。
実はこの災害に遭ったときに、一歩間違えれば、大けが、人によっては死んでいてもおかしくないという状況だったんですけど、なぜか無傷でした。
有り難い、と思いました。
でも、こんな台風程度の災害で本当に大変でしたから、これまであった人たちの事を思うと、落涙を禁じ得ませんでした。
僕ができる事をもっとしよう、と感じる出来事でした。


・環境が激変し、心労から体調を崩しまくった。

これは仕事にも影響がでしまたし、未だにそうですが、ともかく、色々なことが起きすぎ、過活動で、心労がたたりました。この一年は、過去の中でかなり体調を崩した一年でもありました。
強すぎるストレスは、本当に人を殺す。というのを身をもって実感したのでした。だから、ストレス程度で、心の持ちようで、という話もありましたが、そんなことはありません。その人のキャパをこえた過剰な状態は、その人を簡単に殺します。


総じていえば、
「人間不信に陥った、人は怖い、大人は怖い」
と思う一年でした。

元来の僕は、ものすごいお人好しなのです。
だけど、それをいとも簡単に覆し、人間不信、人に対して恐怖するようになった、そんな一年でした。