私達はこの世界の客ではない。

 最近、いろんなニュースを見ているのだけど、もはやこの世界は限界なのではないだろうか、と思うことが多い。
 私達はこの世界を使い捨てにしようとしている、そんなことをひしひし感じるのだ。

 さて、私達はこの世界に色々なことを求める。例えば、生活に必要なほとんどのことだ。それは気候だったり、水だったり、食物だったりする。安定した気候に、安定した食物供給、安定した飲水。色々なことを大自然に求める。

 よく考えれば、そういったものを安定して得るために、人間は狩猟から農耕へと移行し、定住をし、または移動をし、大自然に神を見出して敬意をはらうようになっていった。そういったものは、他のブログやホームページに任せるとして、閑話休題。

 今、生きている私達は、世界に大して妙なサービスを提供し続けるように求めていると思われる。例えば、安定した居住地、安定した食料供給、安定した何か、である。先人たちが苦労して得たものを私達は当たり前のように享受してきた。それはDNAレベルにも受け継がれており、太りやすい人の遺伝子を調べると、祖先が食糧危機に何度となく出会ってきており、そのために脂肪を蓄えやすいように体を変化させた痕跡が、その体質につながっているのは自明の理である。
 農耕の方法や、その他文化に至るまで、私達はほぼ完成されたと言ってもよい、先人たちが築いてきたものを当たり前に受け継ぎ、今ではそれを「より便利なもの」とするように改良を続けているように思える。こうして当たり前に受け継ぐと、先人たちの知恵は残っているものの、先人たちの苦労というのは忘却の彼方に行ってしまうものである。そして、当たり前にあるものとして、受け取っているものを、当たり前に要求してしまう恐ろしさがある。

 陰陽論や五行論を勉強しているとわかることなのだが、 自然というのは決して人間の見方ではないし、むしろ敵対するときのほうが多い。飢饉や病気といった類は当たり前にあり、旱魃や洪水なんかも当たり前に存在する。季節だって不順になることもあるし、時には回復不可能なほどのカタストロフィーを度々もたらす。自然はあくまで主体であり、その中の一員として、人類が存在している。

 そんなの考えれば当たり前、と思うのだろうが、実感はあるのだろうか。

 翻って現代を見ると、都市部とかは特にそう感じるのだが、旬などは無視した食べ物がズラリと並び、正直お金さえあれば、食べ物はいつでも手に入る。さらに気温は室内ではできる限り快適か一定に保つようにされており、雨風は当たり前にしのげ、 たまに来る災害でも日本では飢えて死ぬようなことはない。


 現代は自然の中では普通ではない。

 恐ろしいほど自然という主役を無視して、人類がさも主役であるかのような舞台が作られている。それなのに、自然というフィールドの中に存在しているという、恐ろしい状態になっている。
 別に自然回帰せよ、とは言わないけど、今あるものが、大自然の中では普通ではない、ということを認識していないと、私達は高慢な思いにひたることになる。

 自然から恵みを享受する、とかなんて思い上がった考えなのだろう。例えそうだとしても、私達は自然になにかお返しをしているのだろうか。一方的に与えられ、それが当たり前になり、それがなければ困り、座っているだけでそれが持ってきてもらえるような錯覚に陥っているのではないだろうか。
 私はそろそろ人類は自然にお返しをしたほうがいいと思う。私達は自然の支配者という勘違いをしているどころか、自然のお客様という、もうどうにもならないほどの思い違いをしているのではないだろうか、と感じる。

 食料や飲水は当たり前に自然から与えられるものではなくて、自然の中で自分たちが見出すものである。安定した居住地や安定したものというのは、自然の中では当たり前ではなく、いつ災害という自然の大変化にあったりするかもしれない、という思いをいだいて住んでいなければならないし、自然がなにかをするとしても、人類に許可を取る必要は一切ない。極端な話、自然という大きな生態系が、人類は自分たちにとって脅威であるから排除する、という決定をして行動に移しても、いちいち、人類に、「よろしいでしょうか」と尋ねる必要はなく、やりたい時にやるのであるし、それが当然であると言える。

 自然と人類は共存共栄とかいう甘っちょろい関係ではなく、私達は自然の支配下に置かれているといってもまったく過言ではない。自然と人類は対等ではまったくない。言ってみれば、私達は自然の一員であり、自然という大きな世界のメンバーの一員であるし、そうやってあることに対して、ある一定の義務が生じていると言える。人類がコミュニティー形成し、ルールを設定し、それに従うことを当然としておきながら、その人類が自然という最大のコミュニティーの一員であり、それが設定したルールに従わない、というのはなんというお笑い種なのだろうか。

 今の人類はあまりに自然を知らなさすぎる。知らなければ良い、というものではなく、一員である以上、もう一度この大きなコミュニティーに対して勤勉で敬虔で、謙遜な態度を取るべきだと感じる。私達が食べ物を口にするたび、先人たちの苦労に感謝をし、私達が快適に生活できることに先人たちの苦心を思い、自然を恐れ、必要以上の搾取をやめ、何も知らない子供のように奪い続けることに恥じるべき時期が来ている。

 私達は、この大自然というコミュニティーのお客様ではない。一員としてここにあるのだと言いたい。もし客でいたいというならば、私達は一旦、この大自然から抜けなければならない。そうしたときに、食べ物や飲水、居住地は当然先人たち以上の苦労をして得て行かなければならないだろう。そうして初めて、大自然のお客として迎え入れてもらえるのかも、しれない。ただ、もしそうなったとしても、客である以上好き勝手はできない。長くいることも、暴君のように振る舞うことも、一員として当然に与えられることも、なにもないことを覚悟の上でいなければならないだろう。

 これから数千年後、おそらく人類はこの宇宙を脱して新しいコミニティーを形成するか参加することになるのだろうが、今はまだその時期では全くない。

 情けないことはそろそろやめるべき時期にきている。