自分の面倒ぐらい自分でみることの意味

こうみえても小生は、いわゆる宿泊業に携わるものだが、人が寝泊まりする場所というのは、いろいろなドラマがある。
もちろん、ホテルと記載しないのはそれなりに理由があるのだが。

それはともかく、その人間ドラマは、それこそ実際のドラマになったように現場では色々ある。
また、後ほど機会があれは、このブログに投稿する予定だが、お客様をお世話する、というのは本当に大変でもある。
だが、実はこの大変である、というのはよく考えればおかしな話でもある。
自分が他人の家に客として訪問する時は、実に気を遣う。
ホストに迷惑をかけていないか、よく考えて行動するなんて当たり前のことだ。

ところが、これが人は一円でもお金を払うととても横柄になる。
決められたルールは守らない、お礼なんて言われるのは稀だ。
じゃあ、よく考えると自分はそれだけのことをしてもいい金額を払っているかというと、そんなことはあまりないだろう。

一円でもお金はお金、払ったら言うことを聞け。
実は普通にこの理論が通じた時代が過去にはあった。
それは奴隷時代である。
奴隷に対してはもちろん対価を払わないが、奴隷売人にお金を払って買ったんだから、お前はいうことを聞くべし。というのはその時代では成り立っていた。

話は少しそれたが、どうも、高度成長時代、バブル時代を経た人間というのはこの気来が強い。
はっきり断言すれば、今の50代、60代はとても使えたものではない。
社会的にもお荷物であり、実際に職についていてもほとんど使えない。
批判は覚悟で書いているが、だが、我々若い世代によりよい時代を残せなかった彼らに、何がいえよう。
その上、年金だとか、いろいろな理由で彼に支払っているものは、我々若い世代に重荷になっている。
30代なんかは、彼らの後始末をしているに等しい、その上におんぶに抱っこが当たり前と本気で思っている世代だから、これまた目が当てられない。

彼らが客で来ると、いかに自分の面倒が自分自身でみられないばかりか、どれほど我侭がよくわかる。駄々をこねている子供みたいな中身の持ち主ばかりだ。
それ相応に年齢を重ねているのだがら、それなりの人格かと思えば本当にがっかりするだろう。
もちろん客なので、プロの対応をするが、内心うんざり、と思うこともある。

自分の面倒ぐらい自分でみられない人間が、人を育て、良い世代をつくり、尊敬を得ることができるだろうか。

とことん厳しいことを言えば、自分が生まれて死ぬまで、自分自身のことは自分で面倒をみるしかないのだ。
「誰も自分のことをわかってくれない」
なんて、当然で、自分の心から体、生活、それら自分に関わることをちゃんとできて、初めて自分は大人です、といえるだろう。
誰も自分の代わりに自分の人生を生きてはくれないし、そんなことするのは、この世界に対する冒涜だ。

人から尊敬を得、人を導き育て、良い世代を残していく。
これこそが「今の社会」に生きる我々の最低限の義務ではないだろうか。

おんぶに抱っこ、なにもかも面倒みてもらう人生は、なんてつまらない、価値が少ない人生なんだろう。

よく考えてみてほしい。

自分が死ぬときは一人だ。どんなにまわりに人がいても、どんな聖人君主でも、自分の死の肩代わりは絶対にできない。
自分の面倒をちゃんとみてこられた人であれば、何も恐れることはない。
だが、自分の面倒すらみられなかった人は、目の前の逃れられない死に恐れおののくだろう。

このブログを読んでいる諸君には、そんな思いをしてほしくない、と、切に思う。