言葉は贈り物。

はっきり断言しておくが、小生は毒舌が嫌いである。
これは物言いの話であり、Yes/Noがはっきりしていることとは違うことをあげておく。

言葉というのは、人類が発明した中でももっとも優秀なものでもあり、世界も電脳世界もこれで動いているといっても過言ではない。
神様もこの世界を作った最初は、「光りあれ」とおっしゃったそうで。
少なくとも、外界と自分をよく繋いでいるのは言葉であると思う。
何も自分が思うことが外に発せられないのであれば、それは地獄であろう。

ツイッターをしていて思うのだが、たまに他人に向かって毒を吐いている人がいる。
きっと親しい仲であろう、と思うのだが、やはり傍目から見ていてあまり気分がいいものではない。
もちろん、毒を吐きながら、無礼な振る舞いをしても、それが人のためである場合は、かえって美しいことも認める。が、言葉が全てであるツイッターの世界では、やはり行動が見えないためか、毒は美しくない。
この親しい仲にはいい、とあるが、たまにそうではない人がいて、あったこともよく会話したこともない人から毒が浴びせられることがある。
おもわず「えっ」と思うのだが、よくよく吟味していると、言っていることは正しいことがある。
その場合、まあちょっと落ち着いて話の成り行きを見るのだが、他の人はどうだろうか。

あまり親しくない人に辛辣なものいいや、毒をまぜてたしなめてはいけない。
なぜなら、言葉というのは伝達の手段でもあり、同時に贈り物でもあるからだ。

魔術師や魔法使いは、それらを使うとき沈黙のまま使うのは少ない。
事前に、またはその瞬間に呪文をとなえる。
お坊さんだって、牧師、神父でも、それは同じである。
必ず言葉は使う。
言葉は耳に聞こえるのではなく、心に聞こえるのである。
つまり、自分が悪意をもって言えば、悪意は伝わるのだし、誤解というものもある。
誤解が生じるのは、言葉の選択を間違っているからでもある。

つまるところ、言葉は誤用してはいけないである。

慎重に選び、相手を気遣い、自分の思いを乗せて発するのである。
そうすれば相手は誤解などという初歩的ミスはしないであろう。

例えば、我々は、誤字脱字、誤用があってもなにが言いたいかわかる。
つまり、それは真剣に伝えようとしているからだ。
それに相手も応えてくれる。
ツイッターは非常に言葉な世界なので、悪意や辛辣な思いはすぐに伝わる。
他人を批判するときは、自分も批判される覚悟で相手に伝えなければならない。
我々は根源はひとつであり、何かを批判したり、非難したりすることは、則ち、それは自らに行うことである。しかも、この世界の根源をなす言葉を使用してそれを行うのだ。自分の魂が震わされることを覚悟でやって方がいい。

「自分は毒舌だから許して」
とか
「自分は孤独なんたけど、誰にでも毒吐くから」
とか
「気に入らない、自分はこう思う」
という、自分以外の排他的な物言いをするときは、十分気を付けなければならない。
よく考えてみればわかる、
「失礼ですが・・・」
の文言で、相手はそうか、失礼な事言うのかわかった、と許してくれるだろうか。

毒を吐く、他人を辛辣に批難する、ということをする以上、孤独であることを免れることはできないだろう。もちろん、それを知った仲であればいいが、会ったこともない他人に対しては、礼儀というのはある程度必要ではないだろうか。

良い言葉は、古来から言祝ぎとよばれ、最上の祓い言葉としても使われている。
言葉にはよく気をつけた方がいい、それは言祝ぐことも、呪うこともできるからだ。