求める前に与えよ。

人が嫌だと思うことはするな、とか、
人に喜ばれることをしなさい、というのは昔から耳にしてきたと思う。

これには大原則があると思う、それは、
「自ら先立って行う」
ということだと思う。
小生は、まあ、ゲイの世界という特殊(未だに)な世界にいるのだが、もちろん、普通の世界にも属している。
昔はこの二つの世界はかなり隔たりがあったのだが、今ではあまりかわらないような気がしている。自分もゲイなので批判するわけではないので、念頭において聞いてほしいが、
「何かするのをいつも待っている」
人が多い。自分から何かしよう、とする場合、基軸にあるのは、
「一人でするのは嫌だから」
「寂しいから」
とか、そんなものばかりである。
「自分があれこれするから、ついてくるか?」
というパターンはすごく少ないような気がする。
自分から動き出してるんだが、やはり起因に問題がある。

では、起因正しく自分から動き出した場合、どうだろう。
変な妬みを買う場合が多い。
それでやめてしまう人も多いのは事実だが、起因がいいのであれば、やはり一人になっても、孤独になっても貫くべきだ。

さて、なぜこんな前置きをしたかというと、何事も成功するのは、まず自分から動くことである、と言うことだ。
もちろん、天才の域となると、自分が動こうが動かまいが、動かざるを得ない、いや、突き上がる衝動に耐えきれず動いてしまう、というのが本音だろう。
待っていては何も始まらないのだ。
だが、口ではわかっている、という人は多いが、本当に頭を超えた心でわかっているか、というとそんなことがない。何事も自分から「正しい起因」を持って動かなければ何も始まらない。物事が動き出さなければ、始まることすらないのだ。

ツイッターを見ていて思うのだが、待っていて与えられるものに対して文句を言うものが多い。なぜ、自分から動こうとしないのか、というのが常にある思いだ。
自分にも当てはまることがある。それはかなり大きなことなので、準備が必要なのだが、日常的な小さなこと、そんなに労力が必要でないこともなぜか、待っている人は多い。
だが、みんな口そろえて言うのだ、「○○が欲しい、やってほしい」と。

この記事に関して投稿するのは非常に迷ったのだが、やはり見ていてその感は否めないので思い切って投稿することにした。

「求める前に与えよ」
これがいかに難しいか、まったくわからないでもない。
与えたところで、求めても何もない場合もあるし、むしろ悪くなる場合もある。
だが、自分から与える(それが物品であれ、行動であれ、感情であれ)ことは尊いと思う。もちろん、それに見返りを求めないことは、なお美しい。
だが、気をつけなければいけない。
与えたものは、稀に何倍にもかえってくるからだ。
「良いもの」を与えればいいのだが、「悪いもの」を与えると、痛い思いをすることがある。