神様は完璧なのだが、仏様はまだ修行中。

神様(造物主的側面が強いが)は、本当にこの世界を巧妙に作り、あらゆるバックグラウンドシステムを作ったが、仏様方(すべては大日如来の化身という側面はおいておいて)はその世界で、悟りを開いていわゆるアートマンになった方々であると、小生は認識している。
つまり、仏様はそれぞれ出本があるわけである。

つまり、なんとういか、仏様は修行中の身である。
もちろん、後世には如来という、宇宙そのものを人格化した仏様があらっしゃるが、まあ、それはそれで、仏陀とは別と思っていますので、その話はまた別に。

誤解を恐れず言ってしまえば、

「仏教には深い叡智はあるが、まだ未完成であり、その真髄は無神論である」

と思っている。勘違いしてないでいただきたいが、仏教は邪教ではない。
そもそも悟りを開いたゴータマ・シッダールタはそもそも世をはかなんで、出家をし、悟りを開き、仏教を説いた。つまり、仏教は非常に「現実的」でもある。

この現実的、というのは、いろいろな解釈はあるが、
「この世界のはかなさをどう解釈し、正しく生きて行くか」
ということだろう。

その点、キリスト教に関しては、「造物主である神がどのようにこの世界を作られ、どのように人間に生きてほしいか」

と説いている点で、非常に優れている。
いわゆる「愛」を発明したのだろう。

仏教は「諦めと悟り」を発明をした。

他の宗教に関しては、ちょっとコメントを控えたい。また機会があれば、このブログでコメントしたいとは思ってはいるが。

如来様は後世に発生した概念なのだが、これは宇宙そのものの事象を人格化しているのでおいておいて、それ以降に列されているボーダイサッパ、つまり菩薩様以降はまだ修行中の身であられる。
つまり、みんな如来を目指して修行をしているのだ。
その中でも、弥勒菩薩は、確実に次世代の世界では大日如来にとってかわる、弥勒如来になられると約束をされているが、それでも、須弥山で修行されている身であられる。

どどのつまり、何が言いたいかというと、仏様に気安くお願いするのはどうか、と思うのだ。
修行中の身でありながら(もちろん、民を救うという請願は立てられており、それでも修行なのだが)、われわれが「神様」にお願いするように気安いのはどうか、と思うのだ。

小生の干支の守護仏は「勢至菩薩」であるが、この勢至菩薩様は、文殊菩薩様と、阿弥陀如来様と深いご縁があることをどれだけの事を知っているのだろうか。
彼ら三仏様方が、もともと人であらっしゃり、また、本当に不遇な状況を過ごされ、酷い仕打ちを受けて、なお、仏になろうとした経緯を知っていれば、気軽にお願いはできないと思う。

むしろ、小生は、その仏様に「どうぞ悟りが開かれますように、苦難が報われますうに」と思ってしまう。
自分の仏様を神様と同等に扱うというのは、ある意味、どちらにも失礼なことなのかもしれない。

その点、キリスト教の神様とは、完璧で、ちょっと恐ろしい気もするが。

我々人間は、仏様の邪魔をしてはいけないと思うのである。