誰も喜んで働いてなんかいない。
「自分の可能性を試したいんです」
「この仕事にやりがいを感じたんです」
と、面接では聞くが、実際、何年も勤めている人にこんな質問をぶつけて、
本音で語ってくれたら、どうなるんだろうか。
「自分の仕事にやりがいを感じていますか?」
「やりがいだけで、給料が安くても、この先、何十年も働けますか?」
給料はあがらなく、責任だけ重くなっても仕事にやりがいを感じるから、何十年も勤務を続けられると言う人は、本当にいるのだろうか。
小生からすると、「それはあり得ないか、あっても希少だろう」
というのが、本音である。
誤解を恐れず、はっきり言うのであれば、
「誰もやりがいだけで、仕事なんか続けてられない」
のではないだろうか。
ぎりぎり生活できる最低賃金なような給料をもらって、果たして人は仕事を続けられるのだろうか。それはありえないだろう。
責任があがれば、当然給料もあがってほしいし、ストレスが今よりかかるのであれば、給料かもしくは、それに付随するものを欲しいと思うのは当然である。
忘れがちになるのだが、我々はビジネスマンである。
一人一人が、会社という団体に向かってビジネスをしている、いわば傭兵なのである。
ビジネスは戦場と揶揄されることはあるが、そこで活躍しているプレーヤーは兵士でもあるが、「会社」という国に雇われている傭兵でもある。
それを忘れがちになるのである。
会社もそのことを忘れがちになるのであるが、我々も忘れがちなのである。
当然、できる傭兵には高い給料を払って当然なのだ。
それが帰属意識にもなり、会社と言う国は富国強兵という道を歩んでいく。
ところが、だ。
最近のビジネスマンは、そのことを忘れてしまっている。
報酬は給料だけではない、社会保障、身分や地位、その他、金銭ではなく色々な恩恵も報酬に含まれているのだが、かなりそれが「安くなっている」。
今の経済はデフレというが、実は一番デフレなのは、会社員だと思う。
雇ってもらえれば安泰、少ない給料でも社会保障があればよし。という幻想にとらわれている。会社は何か問題を起こしても責任はとってくれないし、何も守ってくれない、それどころか、会社を守るために自分を犠牲にしろ、と言ってくるのが関の山だ。
「公共の福祉は、個人の福祉に勝さる」
というのがあるが、今は逆転している。何がいいたいか、というと、会社の後ろで見え隠れしているオーナーの福祉が、多数の会社員の福祉より勝っているということだ。
会社と言う字は福沢諭吉が考えたそうだが、「会社」をひっくり返すと、「社会」になるとはなんとも皮肉な話ではないか。
会社も会社で、誰も責任者がいない、現場だけの状態の会社が多数ある。
強力なリーダーシップをもって社員を束ね、会社の繁栄を社員とともに歩んでいく、そんな会社は今あるだろうか。高度成長期にはあったはずだ。
親分は自分の領分を知り、子分たちにどう分け前をし、人心掌握をすればいいかわかっていた。
子分たちは、子分でいるか、親分でいるか選べ、自分たちの領分を弁えて、親分をたてた。
やくざな世界と思うなかれ、そうやって日本は繁栄してきた。
が、いまではその関係は珍しいと言わざるを得ない。
なぜか、子分は上の世代から「子分としてあるべき心得」を伝授されていないし、
親分は「自分の取り分」を心得ていないからだ。
できる限りかき集め、自分のものと固持し、できる限り自分のものにして、残りかすを子分に与えればそれでいいとしている。
これは金銭だけの問題ではない、もっと、休みとか、保障とか、そういう大きな「報酬」の話を含んでいる。
子分は子分でうんざりだし、とっかえひっかえ都合のいいようにしてきた親分たちは、子分の出来の悪さにうんざりしている。
ここで、最初に戻る。
「誰も喜んで働いていないのだ」
誰もが生活のためと言い、働いている。
つまり誰も「よくしよう」として働いていないのだ、いや、少なからずいるのだろうが、数は少ないであろう。
我々の本当の仕事とは何か。
金をもうけること、オーナーを常に満足させ贅沢させてやること、自分の時間や命を削って会社に尽くすこと。そんなことではあるまい。
我々が働く、一番の理由はただ一つである。
「後世が、今よりずっとよくなるため」
のはずだ。それが、ひいては会社や国、自分の繁栄につながり、働く喜びにも通じるはずだ。
今の世の中、誰もが満足をしていない。
それは当然で、満足していない人は、間違った方向に向かっているからだ。
THE GENERAL EPISTLE OF
現在のキリスト教のすべてが正しいとは言わないが、きっと、上の言葉は、間違いなく読んでいる人の心をつかむもの、と信じている。
「この仕事にやりがいを感じたんです」
と、面接では聞くが、実際、何年も勤めている人にこんな質問をぶつけて、
本音で語ってくれたら、どうなるんだろうか。
「自分の仕事にやりがいを感じていますか?」
「やりがいだけで、給料が安くても、この先、何十年も働けますか?」
給料はあがらなく、責任だけ重くなっても仕事にやりがいを感じるから、何十年も勤務を続けられると言う人は、本当にいるのだろうか。
小生からすると、「それはあり得ないか、あっても希少だろう」
というのが、本音である。
誤解を恐れず、はっきり言うのであれば、
「誰もやりがいだけで、仕事なんか続けてられない」
のではないだろうか。
ぎりぎり生活できる最低賃金なような給料をもらって、果たして人は仕事を続けられるのだろうか。それはありえないだろう。
責任があがれば、当然給料もあがってほしいし、ストレスが今よりかかるのであれば、給料かもしくは、それに付随するものを欲しいと思うのは当然である。
忘れがちになるのだが、我々はビジネスマンである。
一人一人が、会社という団体に向かってビジネスをしている、いわば傭兵なのである。
ビジネスは戦場と揶揄されることはあるが、そこで活躍しているプレーヤーは兵士でもあるが、「会社」という国に雇われている傭兵でもある。
それを忘れがちになるのである。
会社もそのことを忘れがちになるのであるが、我々も忘れがちなのである。
当然、できる傭兵には高い給料を払って当然なのだ。
それが帰属意識にもなり、会社と言う国は富国強兵という道を歩んでいく。
ところが、だ。
最近のビジネスマンは、そのことを忘れてしまっている。
報酬は給料だけではない、社会保障、身分や地位、その他、金銭ではなく色々な恩恵も報酬に含まれているのだが、かなりそれが「安くなっている」。
今の経済はデフレというが、実は一番デフレなのは、会社員だと思う。
雇ってもらえれば安泰、少ない給料でも社会保障があればよし。という幻想にとらわれている。会社は何か問題を起こしても責任はとってくれないし、何も守ってくれない、それどころか、会社を守るために自分を犠牲にしろ、と言ってくるのが関の山だ。
「公共の福祉は、個人の福祉に勝さる」
というのがあるが、今は逆転している。何がいいたいか、というと、会社の後ろで見え隠れしているオーナーの福祉が、多数の会社員の福祉より勝っているということだ。
会社と言う字は福沢諭吉が考えたそうだが、「会社」をひっくり返すと、「社会」になるとはなんとも皮肉な話ではないか。
会社も会社で、誰も責任者がいない、現場だけの状態の会社が多数ある。
強力なリーダーシップをもって社員を束ね、会社の繁栄を社員とともに歩んでいく、そんな会社は今あるだろうか。高度成長期にはあったはずだ。
親分は自分の領分を知り、子分たちにどう分け前をし、人心掌握をすればいいかわかっていた。
子分たちは、子分でいるか、親分でいるか選べ、自分たちの領分を弁えて、親分をたてた。
やくざな世界と思うなかれ、そうやって日本は繁栄してきた。
が、いまではその関係は珍しいと言わざるを得ない。
なぜか、子分は上の世代から「子分としてあるべき心得」を伝授されていないし、
親分は「自分の取り分」を心得ていないからだ。
できる限りかき集め、自分のものと固持し、できる限り自分のものにして、残りかすを子分に与えればそれでいいとしている。
これは金銭だけの問題ではない、もっと、休みとか、保障とか、そういう大きな「報酬」の話を含んでいる。
子分は子分でうんざりだし、とっかえひっかえ都合のいいようにしてきた親分たちは、子分の出来の悪さにうんざりしている。
ここで、最初に戻る。
「誰も喜んで働いていないのだ」
誰もが生活のためと言い、働いている。
つまり誰も「よくしよう」として働いていないのだ、いや、少なからずいるのだろうが、数は少ないであろう。
我々の本当の仕事とは何か。
金をもうけること、オーナーを常に満足させ贅沢させてやること、自分の時間や命を削って会社に尽くすこと。そんなことではあるまい。
我々が働く、一番の理由はただ一つである。
「後世が、今よりずっとよくなるため」
のはずだ。それが、ひいては会社や国、自分の繁栄につながり、働く喜びにも通じるはずだ。
今の世の中、誰もが満足をしていない。
それは当然で、満足していない人は、間違った方向に向かっているからだ。
THE GENERAL EPISTLE OF
JAMES
ヤコブの手紙
第4章(CHAPTER 4)
- あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体(したい)の中で相戦う欲情からではないか。
- あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
- 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。
- 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
- それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。
- しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。
- そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。
- 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人(つみびと)どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。
- 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。
- 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
- 兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。
- しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。
- よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
- あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。
- むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。
- ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。
- 人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。
現在のキリスト教のすべてが正しいとは言わないが、きっと、上の言葉は、間違いなく読んでいる人の心をつかむもの、と信じている。