初心者お断り・魔法使いとして、このCMとイベントを忌む理由






まずはこの動画をテレビで連日見かけることだろう





ユニバーサル・ワンダー・クリスマス 2015のCMであり、これから記載することは、ある程度の知識がないと何を言っているのかすらわからないと思う。
それに対して、いちいち説明するつもりもないので、表題には初心者お断りとしておいた。
そもそも、無条件でUSJ大好き、楽しいことなら理由なんかいらないじゃん、という考えの持ち主ならば反発は必至なので、そういう方にわかってもらおうと、これもまたいちいち説明説得するつもりもないので読み飛ばしていただきたい。

CMを見ていてると、やたら奇跡の文字がある。そして、寒い中でも楽しそうに何かを待っている人々、そして、やがて天使が三人出てきて、宙を舞い、驚き、その夜空にはきらびやかな花火が打ち上がり、人々は感動で打ち震える。それは大人でも子供で関係なく、素晴らしい休日を体験している。

そんなところだろう。
酷いものだ。
なにが酷いかわかるだろうか、この話を理解するためには、まず陰陽の役割というものを理解していなければわからない。それとある程度のキリスト教の知識とカバラの知識も必要となるかもしれない。
さて、本題に入ろう。

普通の人々は、
光=良いもの
闇=悪いもの
という固定観念があり、容易にこれから脱することができない。
もともと良い物=光というものは合っているが、この根拠となるのはタルムード(※トーラーに対しての注釈や解釈一連)やカバラなどからあるように、また旧約聖書にあるように、


1:3
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

Wikisourceから抜粋しているのだが、ここにある。
普通の人は、光=善であり、闇=悪であり、両者はお互いに戦ってまだ決着がついていないものと思うことが多いだろう。中級者以上である読者諸君には、何を言っているんだという方ならばこの先の意味がわかる。この時点で、この筆者は悪魔崇拝者か、というのであれば、その読者はまだ初心者の域を出ていないので踵を返して欲しい。

この時点で、創造神というのは、光でも闇でもなく、光側に身をおいており、その実どちらも超越した存在というのが本当の姿であり、神は光でもあるが闇でもある。
この辺りは神学者でも意見は分かれるのだが、私はそういう立場をとっていると明確にしたい。
光と闇のそれぞれの存在は一体であり、戦い、どちらかが勝者してしまうようなアンバランスな存在では、「今」はない。
だが、闇は沈黙し、光が戦っているものがある。
そう、それは、「偽の光」と呼ばれる存在だ。
昔から、悪魔=堕天使という聖書的考えがあるが、人間の知能が発達していって、実は光の存在すべてが正しいとは思わなくなったようだ。例えば、今のバチカンなどは、光り輝いているが、小児虐待からマフィアのマネー・ロンダリング事件まであり、もはや光の存在とはいえないし、もうそもそもの話、バチカンは80年代にはその真の姿を露呈していると言っていいだろう。
実に悪魔的であるのに対し、光を纏うこの存在とは何か。
偽の光のことについては、また後述することにして、この偽の光の存在こそが自分がUSJを嫌悪する際たる理由である。
偽の光の存在達は、明らかに人類を文字通り食い物にし、天の敵であると断言できよう。
多くの人たちが、心霊的敵だと思う存在は今の所闇ではなく、この偽の光の存在こそが真の敵と言えよう。
偽の光は「チョウチンアンコウ」によく似ている。
暗い深海において光をともし、良い物があると誘い、その実文字通り食うのである。
もちろん、この光というのは「光らしい」ものであり、誘い出す餌は快楽である。
そして彼らは、もともと光の存在であり、そこから堕落したものであり、天国、とりわけ神への強い憧れと憎しみがある。
彼らは神の真似をするのだ、だから、偽の光であるとも言える。
闇というのは、本当に光と同じく純粋にして、なにものでもなく、命を育み、光と共に生み出され、表裏一体の存在である、闇なくしては物理的な命も存在できないし、皮肉なことにそのことに対してはグノーシスがいいところまで来ているといえよう。
偽の光は堕天した者達だ。
もちろん、意図的に堕天し、闇の管理者になったものもいるが、今ではごっちゃになっているが、そういうものもいる。
そう、サマエルとルシフエルとサタンの関係のように。

今一度、USJのCMをご覧あれ。
どう見えるであろうか。
感動し、天使の「真似事をし、空まで飛んで魅せて」「無理やり感動を見ているものに対して与える(またはインストールする)」

だいたい、天使は光側の存在であり、神の使者と位置づけられているが、そういう使者、いわば代理人、代執行人(人ではないが)、に近いものをなんの権限もなく、ただ、感動させたい(いわんや別の目的としても)それだけのために、こんなことをしているのである。

本当に「天の者」と会ったことがあるならば、それはこんな花火が爆発していかにもこれ見よがしに天の者がきたぞ、という感じではない。もっと静かな環境でそっとあらわれ、心から畏怖が湧き上がる。決して感動ではなく、それは畏れである。

私はこのUSJのイベントを偽の光の者たちのものだと確信をしている。
これに関わった人間は、死んで裁決を受けるとき、激しく後悔するだろう。まだ死んでなんとかなるのであれば救われているといっても過言ではない。
いくら客商売としても、このように神様を役者に仕立ててはいけない。

神の名はみだりに唱えてはいけない

のである(この比喩がわからなければ、あなたはきっと神も神の名前も唱えてないと言い張るだろう。もしそう思うのであれば、あらゆるたとえを真に理解できる境地にいないということである)。

Wikisorceより抜粋

マルコによる福音書
11:15
それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
11:16
また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
11:17
そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
11:18
祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。

ここはエルサレムではないし、宮でもなく、誰も祭司長でもなければ律法学者でもない、と、貴方が反論するならば、貴方はこの記事に書かれている何も理解していないと私は考えるのである。