阪神淡路大震災から20年

今日、日本のブロガーのほとんどの方は、これを書くのではないのかな、と思いながら、私もこれを書くことにしました。

20年前といえば、直接の被災者でない私たちからすれば、もう一昔。
実は昨日、職場の方にこの地震が起きた時のことを覚えているか聞きました。
そしたらば、全員、覚えている、という返事が返って来て、当時の様子を語ってくれました。

 私が住んでいるのは中部圏なので、阪神淡路大震災の地よりは少し離れている所。それでもたしかに震度3くらいは揺れました。当時、私はそれだけの地震におうたことなく、びっくりして飛び起きたことを覚えています。そして、親の安否を確認し、鳴いている飼い犬をあやした記憶がありました。その時は周囲の家々の犬も吠えていて、やはり自然にちかい生き物は異様なことだと敏感に感じ取っていました。まだ夜明けが前でしたが、南西の方角が真っ赤に染まっていて(これは、肉眼ではなく、霊眼でみて)ただならぬことが起きたと直感しました。

 今の時代とは違い、テレビをつけても地震があったことは伝えてくれますが、内容までは全然出てこなく、うっすらと、大阪方面と連絡がとれない、余震に気をつけるようにということをテレビは口走っていたようでした。

 その日は用事があり、外出をしていたのですが地震のことを口にしていました。そして昼過ぎくらいからどうも大阪方面が壊滅しているんじゃないか、大変なことが起きている、という声が聞こえてきたのです。

 家に帰り、テレビをつけると、私は「ええっ」という声を上げました。今でもはっきり覚えていますが、高速道路の倒壊をヘリから写したフジテレビの画面を見たのです。その時は確か今でも活躍されている安藤裕子さんがキャスターをしていたと思います。あり得ない光景に愕然とし、ただテレビを見ていました。

 特に当時、神戸の長田区の火災に関しては、あまりに延焼がひどく炎もかなり上がっていたため、ずっと中継していたのを覚えています。また、インフラも完全に破壊され、自衛隊を始め、消防の方が現地に入れず大変困っているという話もありました。ヘリも火災の上昇気流によってとても近づけないという話も耳にした覚えがあります。

 当日はこのような感じでした。そして、この震災が少なからず自分や周りのものにも影響を与えました(プライベートなことで)。あの地震は大勢の人の運命をも揺り動かし、人によって破壊的になったのでした。

 幸いにしてか、今の私は防災関係に少なからず関与する立場にあり、その阪神淡路大震災の話しは多く聞くことができます。当時、現地で活躍された消防士の方の話しを聞くだに、涙をせずに得られません。そして、いつもですが、中部圏に居住する我々は、この震災に合われた方に少なからず大きな御恩を感じているのです。

 それは、あの地震があったから、日本の防災の意識が大転換を迎えたいうことです。もちろん、3.11のこともありますが、1.17の地震がなければ、日本の防災に対する考え方はもっとずさんでしょう。やがて、必ず来る中部地方の大地震に対して、大きな大きな影響を与えたのです。各地に防災拠点ができ、あちらこちらに防災備品倉庫ができ、備蓄に対する考え方もまったく変わりました。私たち中部を含め、日本に住む全員が、この震災にあわれた方に対して大恩があると言えます。

 今回は阪神淡路大震災なので、3.11のことはあまり触れずにおきます。ですが、まず先んじてこの日本の地は地震大国であり、そこに住まう以上はそれなりの備え、そして覚悟が必要ということを、身を持って教えてくれたこのことに感謝をしたいと思います。

 震災が起き、一日経過後、テレビには数字が表示されるようになりました。この数字は人の数でした。重傷者数もどんどん増えていき、信じられない数字が表示されると同時に、一番上の数字の列は、死亡者数でした。見たことのないような数字です。時間とともに容赦なく増えていき、これだけの数の方がなくなったとはとても信じられないという、生命の数でした。しかし、落ち着いてから、まだその数字は少なすぎた数字でした。あの、死亡者数の数字の増え方には驚きとともに、どうしてなのだろう、と思うようになりました。

 海外にもこの震災は衝撃でした。都市の直下型の地震というのは、かくも破壊的な状態になるのか、という、文字通り震撼させたのです。詳しいことは端折りますし、他のブロガーさんやニュースサイトにお任せいたしますが、忘れてほしくないのは、その時に海外から差し伸べられた手はたくさんあり、多くの国とその方々に支援をしてもらったことでした。私たちは出来る限り、その方にお返ししなければなりません。それは、いろんな形をとっていいと思います。

 最近になり、この震災を知らない若い世代が、社会にでるようになりました。時間とともにそのようになっていくことは、喜ばしいことでもあり、寂しいことでもあり、そして少し心配でもあります。あの壊滅した街をみれば、なぜ心配かわかるでしょう。本当にあの時は映画や人の想像をはるかに超えた街の破壊、それも、考えられないような凄惨な状態になったのです。それにあの時に、映画なんぞ目もくれぬ人のドラマがありました。それは良い話ばかりではなく、燃え盛る炎の中に、愛する人を追いて逃げざるを得なかった、聞くに耐えられない話の方が多いのです。しかし、若い世代はそういった話を聞いて欲しい。決して他人事ではないのだから。将来の自分の姿です。

 あの地震から20年。ここまで復旧しましたが、まだ、当事者の心は復興などしていません。亡くなった方も、遺された方も、どうか心安らかならんことを祈るばかりです。

 そして、たくさんの方に、ありがとう、と感謝の気持ちを表したいと思います。





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