神や仏にお願いをするものではない。

えっ。と思う方が多いでしょう。
ですが、自分が陰陽道に関わるものとして、これは真実だと思います。

まず、はじめに。
神様や仏様は、お願いごとを叶えてくれる自販機ではない、ということです。

五円や十円を賽銭箱に投げ込んで、
「○○がかないますように」
なんてお願いごとするのは、なんて失礼な話だと思いませんか。

そんなことはない、と思う方。
よく考えてみてください。
自分がそうされたら…?

小生は嫌だと思います。
はっきり言って、そんな欲望を叶えるために自分は存在しているのではない、とはっきりいうでしょう。

そもそも神様、仏様、について少し話をしたいと思います。

神様は、この世界の最初から存在していたもの、または、この世界そのものを創造された、
いわゆる造物主的な側面が強いでしょう。
愛情に満ちていますが、精神性が私たちより、ずっと高く、私たちが容易に理解できる存在ではないと思います。
また、その本質は、愛だということもわかります。

仏様は、悟りを得られた存在です。
もとは人間であった方が多く、人の一生を経て、悟りに至り、智慧をもって私たち人類を導く存在です。

神様は父、仏様は母、みたいなものでしょう。
そして、彼らは決して人間に罰はくだしません。(ただし、仏様方に関しては、菩薩以上)

神様は偉大すぎて、小生にはとても理解が及ばず、大変な畏敬をもって接します。
仏様は、その悟りに至られる道の困難に涙をしながら、また、そのような艱難辛苦の上でも、人類を悟りへと導こうとする心意気に、感謝をもって接します。

小生の姿勢が絶対的に正しい、とは思えませんが、
お願いごとばかりして、お礼もしない態度よりはマシじゃないかと思います。

貴方はお願いごとをして、もしかなったり、自分が望ましい方向に物事が向かったときに、ちゃんと「ご報告」「お礼参り」していますか?

お願いします、お願いします、

ばかりで、かなったりしたら、ほったらかしにしていませんか。

それはとても失礼なことです。
ですが、神様、仏様はとても大きな慈愛をもって私たちを許してくださっているのです。
それに甘え続けてはいけません。
せめて、どうなったか、ぐらいはお礼をしましょう。

それと、これははっきり書きますが、
今の宗教はすべて間違っています。

自然神は自然を大事に共存を望まれていますし、キリスト教のような神様は、本当は神様に近いレベルの精神状態になってほしいと望まれているのではないでしょうか。
また、仏様は、如来様方をのぞいて、修行中の身でもありますので、彼らの邪魔をせず、修行中でありながら我々を導こうとされているその心に心をもって応えるべきではないでしょうか。

宗教はすべからず、その本質を説いており、浅瀬でパシャパシャ遊んでいる我々に深淵はわかりかねるのではないでしょうか。
そこを分かりやすく説くのが宗教家であるのですが、今の宗教家は神や仏に仕えているのではなく、金と権力に仕えているように思います。

3.11の地震があったとき、どこの宗教家が、危険を顧みず、その渦中に入り、人々を助けていたでしょうか。どこのお寺や教会が、翌日にでも祈っていたのでしょうか。
本当に宗教家なら、現地に行く、無理であるならば、教会で神様に祈り、また、護摩を焚いて、人々の魂を救っているのが本当なのでしょう。

私が知る限り、高野山や延暦寺、他の教会などでは、たしかに後日、供養を行ったと聞きましたが、実際に当日や翌日というのは聞いていません。
何をしていたのでしょうか?

現在の宗教は権力者のあいだや、自身の都合に合わせているもので、本当の意味で、ブッダの言葉やキリストの言葉をそのまま説いているとは到底思えないのです。

彼らは寺院を建て、教会を建てろとは説いていないと思います。
日常の中で、悟りは得られるものだと思うのです。

また、聖書にもあるように、言葉を額面通りにとるのではなく、その喩え話や比喩、その他話の深いところにある意味を各々が苦心しながら解釈していくものだと思います。

まだ小生の住んでいるところは田舎ですので、ご縁さんがいらっしゃるのですが、失礼ですが、どうしても仏門を叩くようなひとではないと思います。
お経でもただ、唱えているだけです。
経文に力があるのではなく、その経文には深い叡智があるのを私たちはすっかり忘れてしまっていて、ただ、お経を唱えれば良いという間違ったほうに進んでいるとしか思えません。

お経は唱えるものではなく、読んで解釈するものです。

あと、南無阿弥陀仏は他力本願で、なんでも人に任せていれば、もしくは、阿弥陀如来に任せればいい、という考えがあるようですが、小生はちょっと違うと思います。
任せる、というのは、なんでもかんでもお任せする、という意味ではなく、
阿弥陀如来様に見ててもらう、ということだと思います。
頑張っている自分を見てもらう、楽しんでいる、哀しんでいる自分を見てもらう、阿弥陀如来様が安心して観ていられるようになる、ということではないでしょうか。

いろいろだらだら書きましたが、
単純に「自分に与えられた物を信じるべき」と、いうことと、
「神様、仏様にはお願いをするのではなく、安心して見てもらえるようにする」、
ということです。

もっと次元を下げて即物的に考えるのであれば、
「神様、仏様、助けてください!」
とお願いしても、魂が救われるだけです。
肉体や即物的なものは彼らからみたら、多分付随しているものでしかないのでしょう。
だから、戦争でも、ホロコーストでも、必死に祈った彼らの肉体は救われなかったでしょう。

神様、仏様は、私たちの肉体や欲望を救うのではなく、私たちの魂を救われるものです。