俺様原理主義者、私様原理主義者。
僕は接客業なのでいろいろな方を拝見することが多いのです、そして幸運か不運かわかりませんけど、プライベートでもたくさんの年上の方に接することが多くあります。
年を取る、というのは、人間ができて、多少のことでは動じず、少しずるくなって、でもちゃんと年下を育て、中にはよくない人もいるけど、大体の人は精神的に成熟して人間的にも円熟している。
なんて幻想を抱いていたものです。
実際のとこ、そんなのは夢のまた夢でありえないということは簡単に想像がつきます。
年を取るというのは恐ろしいことです、体力が落ちることやそういうことではなくて、叱ってくれる人がいなくなることです。たいていの人は年下から何か言われたら素直にああそうですか、ということはないでしょう。
「人生経験が自分の半分しかないのに知ったような口をききやがって」
こんな風に思うのが普通なのかもしれないです。でも、これがとても恐ろしい。僕は最近常々思うようになりました。自分の周りに起きた環境の変化、そしていろいろな人を見ていて、強くそう感じました。
年を取れば自分より年を取った人が少なくなるのは当然です。そうしてだんだん自分が長生きしていくと、自分がいわゆる「間違った方向」に考えや行動をした場合、ちゃんといさめてくれる人がいなくなっていきます。そうすると、自分がやっていることを裏では批判されてもなかなか表だって批判されることはなくなり、自分かやりたいようにやれてしまいます。
「自分は正しい」
確かに大事な自信の一つかもしれません。しかしながら、
「もしかしたら間違っているかも」
という疑問にたどり着くことはおよそ遠くなるでしょう。
「自分こそ正しい、違っていない、私は正しいのだ」
という考えは、とても何かに似ていると思いませんか。僕はそいうのを、ある意味での原理主義者だと思うのです。なにもなにもよらず、宗教的なものはなく、自分自身を崇め好きなようにふるまうことに対して実に忠実である主義者。
まさに、
「俺様原理主義者」
「私様原理主義者」
だと思うのです。そしてそれを他人に対して強いるもの。誰も正しくなくて自分だけが正しい、そう強要するのです。それが通らなないと怪物になってしまう…。
これはとても恐ろしいものです。自分が間違っていないか確認するすべがないのです。
昔の尊敬された老人たちはどうやってそうなるのを防いでいたのでしょうか。四書五経、それもありでしょう、僕はそこには自身と自身以外のあまねく愛情があったのだと思います。いまでは愛というと、どうも恋愛のことになってしまいますが、それではありません。恋愛のような愛情ではなくて、本当に意味のでの慈しみの愛のことです。
私たちはそろそろ思い出す必要があります。先人となった時には若いものを育てる義務があるということや、人生のまとめの時期に入ったならば慈しみを持つということを。確かに僕はまだその年ではないし実体験として語ることはできません、しかしそれを待っていたら何も言えないでしょう。だったら、わかる範囲で僕は投げかけます。
私たちは何かとても大事なことを忘れてしまい、何か大事なことをしてないのではないでしょうか。
僕たちは人類の一員であるはずです。その人類というのは自分だけでしょうか、今の生きている人だけでしょうか、いいえ、もっともっと大きな概念であるはずです。今までもこれからも人類は去っていった人、まだ生まれ出でぬ人、そういうのを含めた大きな大きな家族だと思うのです。この素晴らしい大家族の一員であるために、家という大きなものを支えることに何のためらいがあるのか、僕は知りたいです。
僕たちは未来の子供たちからこの世界を預かっているだけにすぎません。そこに慈しみや愛情を注がずしてどうして彼らの手に戻すことがかなうでしょうか。
自分だけ、というのはあまりに小さい世界ではないでしょうか。もっともっと大きな世界が目の前に広がっているのに、どうして自分の世界に閉じ込めようと躍起になっているのでしょうか。
僕は思うのです。
何が正しくて何が間違っているなんて人間やってたらわかるはずがない
ということを。
将来、俺様私様原理主義者にならないように、今から心がけたいと考えるようになりました。だってなってから、取り戻そうとしたら、もしかしたら間に合わないかもしれないから。
年を取る、というのは、人間ができて、多少のことでは動じず、少しずるくなって、でもちゃんと年下を育て、中にはよくない人もいるけど、大体の人は精神的に成熟して人間的にも円熟している。
なんて幻想を抱いていたものです。
実際のとこ、そんなのは夢のまた夢でありえないということは簡単に想像がつきます。
年を取るというのは恐ろしいことです、体力が落ちることやそういうことではなくて、叱ってくれる人がいなくなることです。たいていの人は年下から何か言われたら素直にああそうですか、ということはないでしょう。
「人生経験が自分の半分しかないのに知ったような口をききやがって」
こんな風に思うのが普通なのかもしれないです。でも、これがとても恐ろしい。僕は最近常々思うようになりました。自分の周りに起きた環境の変化、そしていろいろな人を見ていて、強くそう感じました。
年を取れば自分より年を取った人が少なくなるのは当然です。そうしてだんだん自分が長生きしていくと、自分がいわゆる「間違った方向」に考えや行動をした場合、ちゃんといさめてくれる人がいなくなっていきます。そうすると、自分がやっていることを裏では批判されてもなかなか表だって批判されることはなくなり、自分かやりたいようにやれてしまいます。
「自分は正しい」
確かに大事な自信の一つかもしれません。しかしながら、
「もしかしたら間違っているかも」
という疑問にたどり着くことはおよそ遠くなるでしょう。
「自分こそ正しい、違っていない、私は正しいのだ」
という考えは、とても何かに似ていると思いませんか。僕はそいうのを、ある意味での原理主義者だと思うのです。なにもなにもよらず、宗教的なものはなく、自分自身を崇め好きなようにふるまうことに対して実に忠実である主義者。
まさに、
「俺様原理主義者」
「私様原理主義者」
だと思うのです。そしてそれを他人に対して強いるもの。誰も正しくなくて自分だけが正しい、そう強要するのです。それが通らなないと怪物になってしまう…。
これはとても恐ろしいものです。自分が間違っていないか確認するすべがないのです。
昔の尊敬された老人たちはどうやってそうなるのを防いでいたのでしょうか。四書五経、それもありでしょう、僕はそこには自身と自身以外のあまねく愛情があったのだと思います。いまでは愛というと、どうも恋愛のことになってしまいますが、それではありません。恋愛のような愛情ではなくて、本当に意味のでの慈しみの愛のことです。
私たちはそろそろ思い出す必要があります。先人となった時には若いものを育てる義務があるということや、人生のまとめの時期に入ったならば慈しみを持つということを。確かに僕はまだその年ではないし実体験として語ることはできません、しかしそれを待っていたら何も言えないでしょう。だったら、わかる範囲で僕は投げかけます。
私たちは何かとても大事なことを忘れてしまい、何か大事なことをしてないのではないでしょうか。
僕たちは人類の一員であるはずです。その人類というのは自分だけでしょうか、今の生きている人だけでしょうか、いいえ、もっともっと大きな概念であるはずです。今までもこれからも人類は去っていった人、まだ生まれ出でぬ人、そういうのを含めた大きな大きな家族だと思うのです。この素晴らしい大家族の一員であるために、家という大きなものを支えることに何のためらいがあるのか、僕は知りたいです。
僕たちは未来の子供たちからこの世界を預かっているだけにすぎません。そこに慈しみや愛情を注がずしてどうして彼らの手に戻すことがかなうでしょうか。
自分だけ、というのはあまりに小さい世界ではないでしょうか。もっともっと大きな世界が目の前に広がっているのに、どうして自分の世界に閉じ込めようと躍起になっているのでしょうか。
僕は思うのです。
何が正しくて何が間違っているなんて人間やってたらわかるはずがない
ということを。
将来、俺様私様原理主義者にならないように、今から心がけたいと考えるようになりました。だってなってから、取り戻そうとしたら、もしかしたら間に合わないかもしれないから。