神様が願い事を叶えてくれるなんてなんて不遜な思い上がりでしょう

 私たちは、なにか自分たちの手に負えない状態になると、決まって自然と神様と言ったり思ったりします。これは人間として自然な反応ですが、神様にお願いするのが実は昔に比べてすごくあるように思います。

 例えば元旦にいく初詣、それから旅行に行ったりすると寺社仏閣を巡りますよね、その時にもお願い事をしていないでしょうか。ほかにもなにか事があると、お参りにいくと常に神様になにかお願い事をしていると言えます。

 こうして考えると、もはや参拝にいく、寺社仏閣というはお願い事をしに行く場所であり、その願い事も結構無理難題ばかり神様仏様にお願いしているように思えます。まあ、この無理難題のお願い事をするのは昔からですから、特別に昨今が際立っている、とは思いませんが、どうしても気になることがあるのです。

 神様や仏様は私たち人間の存在に比べて大変尊い存在で、自然や運命、運不運あらゆるものを司っている、または分担して司っている、私たちの個人の力では到底及びもつかない素晴らしい存在と言えます。

 私たちからすれば、神様仏様におつかえする、というのは当然のことのように思うのですが、色々とそういうお願い事をする場所を見ていてふと思うのです。私たちはまったく逆のことをしていないか、と。

 逆というのは色々ありますが、私たちは神様や仏様に簡単にお願い事ができるような存在なのでしょうか、それも無理難題をお礼もせずに、ということです。その昔、お天道様が見ている、という言葉がありまして、お天道様が神様かどうか詳しいことはまたの機会に論ずるとして、その言葉の本質的な意味としては、
「天がいつも見ているから、心にやましいことをしてはならん」
「わからぬ、と思って悪事を働いても、天は見ているから誰も人が見ていない時ほど襟を正せ」
という意味で使われていました。今では、この言葉は滅多に耳にすることはありません。しかしながら、ちょっと前までは聞いて言葉だと思うのです。こうして考えると、お天道様は見ているぞ、とか、バチが当たるとか、そういうところから神様仏様に対しては、尊崇の念と敬意、そして畏れがありました。今ではバチが当たる、なんて言ったら何を非科学的なことをと一蹴されてしまうかもしれません。

 誰も咎める人はいないし、自分の好き勝手やってなにが悪い、ばれなきゃ問題になりはしないよ。そんな言葉がちらほら聞こえきそうなことばかりがあります。

 私たちは神様仏様に対して、畏敬の念というものを失ってしまったように思うのです。

 寺社仏閣はさながら何かのテーマパーク。好き勝手な身の程も知らずもいいところのワガママ放題のお願い事をしていき、かなえられなければあそこはダメだ、なにか現世利益的なことがあそこはいい、とか、力をあたえてくれるパワースポットだ、やれネガティブスポットだ、と騒ぎ立てます。見た目の礼儀があればまだいい方で、それすらもなく境内は毎日ゴミの山、御不浄に行ったのにきちんと清浄にせずに参拝、内容はとんでもないものばかり。やれ珍しい仏像だ、やれご神威のある札だ、と、お土産てんこ盛り。

 そんな所だったのでしょうか、神様がおる所は。

 私たちはいつの間にか、神様や仏様を生き方を教えてくれる手本や先生というよりも、お願い事を叶えてくれる都合のいい、なにかのマシーンと考えてはいませんでしょうか。

 人生は確かに辛いことが多い。確かに神様とかにすがりたく気持ちもわかります。でも、私たちは参詣に行く時に、こう思ってはないでしょうか。願い事かなうといいな、と。

 神様や仏様は天上におられて、私たちを見ています。たしかに裁判官みたいな神様もいれば慈愛に満ち人が好きだ、という方もみえられます。しかし中には人は大嫌いという神様仏様もおるわけで、そういう趣向性など関係なしに機会があれば私たちはお参りに行き、よろしくお願いします、と無理勝手なお願いをします。

 あなたが神様だとして(本当は遠い遠い将来はそうなのですが)、どう思いますか。見知らぬ人がひっきりなしに訪ねてきては、こちらの都合関係なく、好き勝手な願い事ばかり言われ、やれこうしろ、はれこうせよ、と言われ、なお、見た目が綺麗かそうでないか、と物質的な側面で判断され、現世利益なご利益で、なにかの雑誌のランキングのように判断されたら。きっとこう思いませんでしょうか?
「なんて思い上がりも甚だしい、不遜な輩だ」
と。
 今の神様たちは、きっと優しい方ばかりなのでそこまで思わなくても、でもやはり、どうかな、と私たちに優しく注意してくれると思うのです。

 本当に神様仏様に会いに行く時は、私たちのあるべき姿勢とは、感謝の気持ちを持って行く時だと思うのです。ああ、ありがたい、なんてありがたいんだ、と思い、参詣しに行ったことはありますか?、もしあれば貴方は神様に覚えられていることは間違いないと私は思います。逆に、いつもお願い事ばかりしている人は神様が横目でちらと見るだけで相手にもしてもらってないでしょう。

 このブログにも書きましたが、伊勢神宮に行った時、風宮で参拝するために並んでいた時に腰を抜かすようなことがありました。軒にある目、もっとも目だけしかなかったのですが(大きさも人の目ではない)、その目が見ているものは、心でした。これは直感でわかったのです。着ているものや持っているもの、顔などは関係なく、まっすぐに心がどのようであるか、を見ているとわかりました。それはもう動揺しましたよ、当然でしょう、隠し事何一つできずに一瞬にして心の奥底まで見られたと思ったからです。まだ物理的に裸でいることの方がどれだけましか。

 私たちは、聖なるもの、に対してあまりに不遜ではないでしょうか。最近、スマホのゲームで、いや、ゲーム自体は何も悪くないのですが、神様などをキャラクター化して遊んでいるのを見て、もう私たちも終わりなのだな、と思うようになりました。こういうことができるのは、私たちが、もう、聖なるものや悪しきものがなんなのかわからなくなってしまっているからです。これは言葉でわかる、わからないのではなく、もう感じなくなってしまっているのです。そういうものから遠くなってしまった、というのが正しいのでしょうか。

 少なくとも、私たちは神様仏様に対して、願いを叶えてもらおうとか、そんな不遜な態度をとるべきではありません。私たちは身の程をしり、知足按分でいるのが一番いいのかと思います。

 聖なるものや悪しきものに、決して不遜な態度をとるべきではない。それが私たちの身の程を識ることにもなるのです。