「統合失調症 愛と憎しみの向こう側」を読んで思うこと。



http://www.amazon.co.jp/dp/B00AXBM414
読書感想文なんて、大嫌いだった。
そんな出だしが似合う本でしょうか。
精神を壊れるほどまでに患い、また、似たような思いをしたことがある人ならば、この本を読んできっと胸を打つものがあるはずです。
----------これほどまでに、胸をかきむしるような気持ちになる本はかつてあっただろうか。
というのが僕の感想であり、アマゾンの評価欄ではとてももったいなくて、ブログに取り上げました。
この本の内容はAmazonさんや他のサイトに任せるとして、僕がこの本を読んでいて、これほどまでに素直な「男の胸の内」を書き上げたものはない、ということでした。
僕は通勤に片道一時間くらいかかります。自動車通勤であり、運転をしているのです。iPhoneにはボイスオーバー機能という画面を読み上げる機能がありまして、これとKindleを併用させて読書をしています。
臨場感が大変あり、通勤の車内で流れるiPhoneの読み上げ音声は心を直に打つように思いました。正直な話、涙が流れてしまい、車内でよかったと思うのは何度もありました。
繰り広げられる人間関係とその中で渦巻く愛憎、飾らない男の本音、嵐のように変化していく現実、過ぎていく時間、親しいものたちが故に起こる出来事、男として、夫として、親として、子どもとして、血縁者として、そして、どうしてこんな目に遭うのか、そんなことが何も飾ることなく綴られています。
内容のあらすじは
「結婚し、子供二人に恵まれた家庭。その家庭のお嫁さんが統合失調症を9年間治療していたが、ある時、一気に症状が悪化してしまう。幻聴に惑わされ、さまよい、行方不明になってしまう嫁、誠実な夫として接してきた夫はお嫁さん事は見捨てることなく根気よく治療を続け、行方不明の嫁を探しまわり、二日後やっとの思いで保護をする。そこから始まる精神病院への入院、それに伴う主治医との確執、病院やその体制への不信感、嫁の両親(義両親)からの猜疑の目と不信、子どもたちのこと、とりまく環境と、よりよい治療と環境をもとめて、疲れた心と体の家族と自分を鼓舞しながら進む長い道のりの話」
といったところです。
この本の感想はいろいろあります。
「幻聴というのは、あらゆる現実の声を超えた最も強い力を持つ声」
なんです。






それなのに、なぜだろう、この本を読んでいる最中から、僕はこの本のことを書きたくて仕方がなかったんだ。

いや、本当にこの本は僕の中ではまれに見る逸品だと思います。




ええ、決してチャラチャラした文章でも、無用に飾り立て無残に言葉に埋もれた文学でもない。しかしですね、これは本当に、本当に読む価値のある本なのです。

つまり、通勤にかかる二時間の間は、iPhoneに本の内容を音声で聞いて、家についてからはKindleで黙読をするようにしました。2日ほどで全部読み上げてしまいましたが、比較的文章量は多かったと思います。







まずは、著者こと、旦那さん、イケメンです。本当にかっこいい、その姿には誰でも励まされるでしょう。でもね、ちょっと頑固かなって思います。何が頑固かっていうと、助けをちゃんと求めないこと。制度的にこうだから、この人はああだから、というところがあってそれに憤っているところがちょっとかいま見えます。確かに大変なのはわかるんだけど、そのあたり、誰かの手を借りる、というのは決して悪いことではないので、一人でなんでも抱え込まないでほしいな、と思いました。

お嫁さんこと、玲子さんが幻聴のせいで家を出て行って行方不明になった時、探す姿に心打たれるのもありましたし、同じように心が鷲掴みされたようで、一緒に探し回りたかった。この時、本当に助けになる期間って警察かなって思いますが、本文を読めばわかりますけど、その頼りにならないこと。一緒探しまわることは殆ど無いんですね。捜索願をだしても警ら中に見つけることすぐに照合されるとか、そんな程度。確かに、警察は一般市民の助手ではありませんもんね。

この時、心配する旦那さんのことも、もちろん文章からわかりましたが、お嫁さんである玲子さんが非常に可哀想でした。幻聴を聴いたことがない人には絶対にわかりませんが、


聞きたくない、と思っても、四六時中聞こえてきます。
なぜそんなことわかるのか、というと、僕にも経験があるからです。だからこそこの本を手にとったのですが。
幻聴から逃れる手はありません。心の誰にも踏み込まない領域にも踏み込んできます。これは霊の憑依と同様で、心や頭にある情報を読み取り、さらにまったく考えもしない情報や感情を付加して喋ってきます。喋る内容は様々で、幻聴同士会話をしていますし、話かけることもあります。内容は酷いものばかりで、まるで自分の対する陰口を堂々と話されているよう。無視しようとしても、ずっと話しかけてくるし、内容が内容で無視できません。


感覚としてわからない人は、普段、街なかを歩いている自分を想像してみてください。

貴方は街なかを歩いています。
何も変なことはしていませんし、何も悪いことはしていません。ですが、すれ違う人、人、口々にこう言います。

「見て、あの人、変な人ー」
「ほんと、おかしいよね!」
「なんだこいつ、おかしなやつだなぁ」
「ねえねえ、変な人がいるよ、警察呼んだほうがいいんじゃない?」
「そうそう、呼ぼうよ、おかしいよ」
「あ、あの人、なんか避けた。おかしいの」
「みんな迷惑に思っているんだよ、お前、どっかいけよ」
「みんなに迷惑なんだから出てくるんじゃないんだよ、何様のつもりだよ」
「おまわりさん、ねえねえ、こっそりあの人見てみて、変じゃない?」
「本当だ、様子を見ようか、気づかれないように後をつけるんだ」
「うわ、気持ち悪い、なにこの人。あ、おまわりさーん」

こんな会話が延々と『聴覚に』聞こえてくるのです。
まだ一例で、もっと酷いことも言われます。
そんなことあるはずがない、と思われるでしょう。あるんです。自分が見聞きするのと同じように聞こえてきます。声色も違いますし、口調も違います。
こうなってくると、脳はパンク状態、暴走状態です。

さまよっている時、玲子さんはこんな状態だったんだろう、と、思うのです。
それはとても辛いことです。本当に辛い。
考えても考えても脅迫じみた声が追いかけてくるし、その声から逃れようと疲れるのも構わず、とりあえず歩き続ける。
人間というのは不思議な生き物で、脳が暴走状態になると、歩こうとするのです。走ろうとはしません、ともかく、当てもなく歩くのです。痴呆症の老人が徘徊したりするのも、同じようなものなのでしょうか、ともかく、歩こうとするのです。疲れていようが、怪我をしていようが関係ありません。

僕の経験からですが。
歩くと、少し、楽になるのです。
声から少しだけ逃れられるのです。
もっとも、場所が変われば違う声、違う内容が追いかけてきますが。

幻聴の見分け方として。
歩こう、移動しようとするのは幻聴です。
その場にとどまろう、とか、身をかがめて自分を守ろうと固く丸まるのは霊の憑依
だと思います。

というものの、実際にこの状態になると、僕は幻聴のそのほとんどは霊の憑依からだと思いますけど。もちろん、それは体、特に脳のアンテナが普通の人の何十倍も敏感になって霊感が全開になって聞こえてしまうのでしょうけど。あくまで持論で、一般論は違うますからご留意を。

閑話休題。

幻聴に惑わされ、さまよい歩く姿は普通の人には不気味に見えますが、残念ながらこのご時世、声をかけてなんとかしようと力になってくれる人は少ないです。これが、著者の不運でもあったのではと思います。

経験がある方が見たら、
「あれ、これは声を掛けたほうがいいな」
と思って行動します。
怖くありません、なぜならば、統合失調症(精神的疾患)=凶暴ではないことを知っているからです。

そして探しまわる著者こと旦那さんを見た時に、誰も力になろうとしなかったのも、地域性もありますが、とても残念なことに思います。

思うのですが。

僕は田舎の人間なのでそうなのかもしれませんが、都会の夜をみると、泥酔をして絶対に介助が必要な方が放置されています。一年以上前でしたが、そういう年配の女性がいて、ビルの陰で吐きまくっているのをどうしても放っておけず(自分自身の誓願もあり)、タクシー代を僕持ちで自宅にようやっと送り届けたことがあります。そこまでしろ、とはいいませんが、せめて事情なり聞く人はいなかったのだろうか、と、都会の冷たさに思うことがあります。

ようやく見つかった玲子さん(嫁さん)、旦那さん頑張ったと思います。この話をききながら、自分はレイキを送っていました。二人に奇跡が起きますように、と。

本当の戦いはそれからで、急いで入れた精神病院の病棟、そこまでの制度的欠陥ともいえる行政とのやりとり、そして最終的な受け皿的な病棟での医師とのやりとりに不安と不満がつのる著者。
それはそうでしょう、著者をせめるつもりはありませんが、著者の運命はあまりに二人に過酷でありました。これは二人のせいではなく、スピリチュアル的に見れば二人の運命が酷いことをしているように思います。
でも、ちょっとだけ思うことも。確かに切迫した状況でした。ほうほうの体でなんとか掴まえれた玲子さん。思うことは「早く、早く」なのですが、これは良くないです。そう思うことは罪ではありませんし当然ですが、嵐の渦中には絶対に動いてはいい結果で出ません。あと一歩堪える力が欲しかった。玲子さんと出会えたのは土曜の深夜、そして日曜には病院が空いておらず、結局納得出来ないが、受け入れてもらえる病院に収容されたわけです。これは急いだからです。
ここでも誰か支える人がいれば結果は違っていたのに、と思うのですが、彼らは彼らで出来る限り正しい判断をしたと思います。

待てばよかった。それは結果論です。

さて、最初の受け入れ先の医師は、はっきりいいますが、最低です。しかし、仕事はきちんとしていたと思います。忘れがちですが、医者といえども人間です。それは業務的な無理を通すことができることもあればそうでないこともありますし、感情的な問題も多いし、何よりストレスフルな職場でしょう。あのような態度はどうか、と思いますが、それは私達が
「接客されることに慣れすぎている」
ことが要因の一つでもあります。
これも結果論です。

どちらも悪くなかった。ただ、見ているところが違っていた。

ということだと思います。
僕はここで思いました。感動的な再会のシーン、そしてようやく一息つける環境。どうしてそこまでなるのに、玲子さんのご両親はこれまで何も行動してこなかったんだろう、と。読んでいくとわかりますが、実はこのご両親の行動や思考パターンはよくあることなんです。僕の身近にもあります。

気分を害さないでいただきたいのですが、これは団塊ジュニアがよく目の当たりにする問題です。この義両親の思考や行動は、戦後復興の初期に生まれ、高度成長期、バブルを経験してきた方々に比較的よく見られるパターンだと思います。もちろん、若い人にもありますし、その年代でそうでない人もいます。ですが、僕は比較的、よく目の当たりにするのでそう感じるのです。

これはこのブログで別に書き上げるつもりですが、ともかくお客様気分が抜けないのです。いえ、それしか知らないとでもいうのでしょうか。

医師との不和に、義両親との軋轢。
僕はこの義両親にも言いたい、結婚してまだその関係があるならば、娘だけではない、娘の婿もあなた達の家族の一員なのですよ、と。そして、それをいう助け舟がなかった不運も著者にはありました。

ともかく著者は男性の鑑のような人で、かくもがな、我慢強い。しかし、それが災いしているのもこの本からは伝わるのです。助けて欲しいとき、自分の手には余るとき、だれでもいいからどこでもいいから、助けてくれ、と、きちんということです。誰が、どこに、どうやって、という考えは超越して助けを求めるのです、その場で。

それだけでも違ったのに。

と思うことが本当に多かった。
病院を変わり、環境を変えたことについては、僕は大正解、と思います。どうしてもダメならば、大事なものを捨てて場所を変える勇気も必要です。著者が思い出の家の事を綴っているところを想像すると、本当に切なかったと思います。しかし、義両親の不和、医師への不信、もはや選択肢はないと思います。

過去を捨てることは、本当に辛かったろうな。

と思います。自分の手でするならばなおのことでしょう。

幸いして、少しずつのようですが、嫁さんである玲子さんの症状は良くなっているようです。ですが、油断はなりません。著者も力を込めて書いてありますが、一気に悪くなる(陽性症状)になるのは珍しくなく、綱渡り的な感も否めません。

子供たちのひたむきな態度にも感心をしました。普通ならば多感な時期の子供です。思うことはたくさんあったでしょう。それ故に、進路があのようになったのでしょう。この物語の隠れたる主人公は子供たちです。そしてなにより、仕事の愚痴は絶対に書かなかった。これは大変見上げた根性です。これは読み終えた興奮が覚めた時に、思ったのです。著者は男の鑑です。でも、ちょっと強情なところもあるので、ぜひ他人に迷惑をかけたり世話になることを悪しとしないでほしいものです。

この物語は、胸に突き刺さります。
それはおそらくそのほとんどが真実であるからでしょう。
著作として出すにはどうしても脚色は必要ですから、そこは仕方が無い。
ですが、僕はこれを映画化して欲しいです。
誰よりも、何よりも、みんなの励ましになり、理解につながります。

僕は今でもこの本の内容を思って、手を合わせます。

この一家が幸せであり続けますよう。
困難を乗り切る力がありますよう。
玲子さんが寛解されますよう。

そして、著者の心と苦労がどうぞ報われますよう。

僕は手を合わせて、神様にお願いをしています。

この本を読み返すたび、それは続くことでしょう。

著者さんが笑顔でありつづけれるように、そしてともに苦しい最中を歩むものとして、心よりこの家族に応援のエールを贈ります。