慈雨の様に災難を受けよう

およそ人間ほど不幸に敏感な生き物はいまい。
誰でも、人生を生きているものであれば、およそ不幸に出会ったものもいまい。
生きていれば、不幸だと仏陀もいったくらいだ。
この避け得れない怪物はどうしたらいいんだろう、と、古代からのテーマでもある。古今東西あらゆる賢者がその答えを導いてきた。
しかしながら、どうしても不幸という病にも、死にも似たそれは克服できていない。

天気もそうだ。
雨の日もあれば晴れの日もある。
我々は天に向かって、なぜ雨が降るのだ!と叫ぶだろうか。
雨の日ならば仕方ない、と諦め、傘をさしたり、レインコートを羽織ったりするだろう。暑ければ薄着をするし、寒けば厚着をする。

仏陀は、生老病死は苦痛であるといい、そこから脱するのは諦めにも似た悟りを得て、輪廻転生をぬければ苦痛は無くなると説いた。
つまり、生きることは苦痛だと説いたのだ。

日照りし、雨が降り、雪が降る天は我々を不幸にしようと思っているのだろか。そんなことはない、我々がいようがいまいが、雨が降る。
そういうものが自然なのだ。
そしてすべからず、それらは美しい。

我々が日常で経験する不幸というのは、本当に我々を不幸にしようとしているのだろうか。そんなことはないだろう。
ただ、雨が降るように、出来事が起こっているだけだ。
もちろん、その中には意図的なものも感じる。
だから、神様を信じるのだろう。
もちろん、豪雨のように、明らかに度が過ぎているような不幸もある。
しかし、実はそれらは不幸でもなんでもない。
ただ単に出来事が起きているだけなのだ。

もし、貴方が傘をもっていない時に雨に降られ、そこは雨宿りするところがない大平原だったとする。
どうするか?
きっと貴方は諦めてその雨を受けるだろう。
両手を広げて、濡れた衣服を脱いで雨雫をその身あびて、体に伝う雨水を気持ちよく思うだろう。
その時、雨は災難ではなく、甘露となり、慈雨となるだろう。

結局、不幸というのは自然現象で天が雨を降らすように、人生には避けれない、至って普通の自然現象であるのだ。

それを嘆くのはやめよう。
貴方が自分に意思によって雨を降らせたり、止めたりできないのであればなおのことなのだ。


不幸である、というのは、本当は幸せなのかもしれない、と、そして、それは雨と大差ないと気がついた時、荒野で彷徨う貴方の魂は、服を脱ぎ、降り注ぐ雨は慈雨だと気がつくだろう。
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