幸運な道などあり得ない
幸運なこととはなんだろう、とよく考えみると、物事がスムーズにいったり、何も邪魔されなかったり、することが実はラッキーなことだと思わないだろうか。
例えばタナボタ的なことは「不意打ち」な幸運で、これは思いもよらない幸運であり、期待しているわけではない。
よく考え見ればおかしなことで、私達は「物事がスムーズに行くことが当たり前」と思う節があるからこそ、妙な邪魔が入ったりすることに対してイライラすることが多い。
イライラするってことは、心のどこかでスムーズにいくのが「普通」と思っているはずなわけで、どうして邪魔が入るのだろう。
答えは簡単で、人生というのは、不合理かつ不順調で邪魔が入るのがデフォルトなのだ。
そういうものがまったくない人生というのは、多分ないだろう。
傍目から見ていて、そう見えるだけで、本人は退屈だったりするし、病気はするわけだし、老いていくわけだし、楽しいことなど多分何一つないだろう。
だからといってなんだが、じゃあなぜ私達はイライラするもとになる、順調であることがデフォルトなのか、というと、多分だけど、本来は色んな物事は順調なのだろう。
人生も同じで、おそらく人生を設計する段階において、まず順調な人生というものが設計され、そこから邪魔を入れていく手法なのではないのか、と思うわけで。
じゃあ、イライラと地獄に突き落とす、この不運というべきものはいったいなんだろう、ということであるけれど、それは多分、試練、というのであっていると思う。
試練が必要な理由は、またいずれ書くことになると思うけど、いずれにせよ、言ってみればいらいらするようにわざと仕向けられているところはある。順調な人生にわざと困難という、スパイスにしてはずいぶんと激烈なものを入れ、ごった煮にしているのではある。
だから、もしイライラすることがあれば、乗ってはいけない。
それは一種の挑発なわけであり、それにまんまと乗れば、同じ成長でもずいぶんと高い代償を払わされることになるだろう。
幸いにして、その不運の半分は経験上だが、あまり賢くないものが設定しているようである。
だから頭を働かせて考えるのが一番いい。
どうしてこんなことを起こすのか、何をさせたいのか。
すると、その邪魔が邪魔にならなくなる。
というか、視界に入らなくなってくる。
邪魔をされても気が付かなくなる。
と、なるといいけれど、そこになるまでがまた大変なんですよね。
さて、久しぶりに真面目に考えてブログを打ってみたけれど、
ダメですね。支離滅裂。
もっと投稿回数を増やして、面白いものが書けるように頑張ります。
今回は練習ということで、お許し下さい。